「しあわせ」について

東南アジアの雨季のシーズンには、道路が大渋滞になり
(雨季じゃなくても、慢性的な渋滞であることに変わりはないのですが)
なかなか前に進むことが出来ないために、することがなく
車の中から、窓越しに外の様子を眺めていることがあります。

雨の中、ストリートチルドレンが頭に厚紙のようなものをのせ
雨をしのいでいるのが見えました。

彼らは靴を、履いていません。

私たち日本人は、雨の中そんな彼らを見ると、かわいそうになって
自分の胸の痛みを感じて、ほんの一時、彼らのこの状況を
どうにか出来ないのだろうか、という感傷的な気分が
こみ上げてしまったりします。
大抵はその場だけの感傷でしかなく、私たちはまた、
それぞれの日常に戻っていくだけです。

雨季のスコールの中、衝撃的な場面に遭遇したことがありました。
3歳前後のお子さんだったでしょうか。
激しい雨の中、頭にはシャンプーをつけ、体も泡だらけになって
歩道のあたりで、素っ裸になって、激しい雨を浴びてはしゃいでいました。

私はその時も、渋滞で前に進めない状況の中、
車の窓越しに激しい雨をシャワーのかわりにして、体を洗う
小さなストリートチルドレンたちに呆気にとられ
雨を浴びてはしゃいでいる時の眩しいくらいの笑顔と、
彼らの今置かれた境遇とのギャップにあまりにも困惑していました。
私は、おでこを窓にくっつけるようにして、
ずっとずっと彼らの様子を見ていました。

あんなに楽しそうに笑って。

その笑顔をどう受け止めたらいいのかがわかりませんでした。
貧し過ぎる彼らは、おうちがあるのかないのか、
おうちがあったとして、もちろんシャワーなんかあるわけもなく
だから雨季に、激しい雨が降るとシャワーみたいに雨を浴びて
体を清潔にしようとしているという理屈です。
多くの日本人には、簡単に理解できる理屈ではないと思うのですが。
彼らの置かれた状況がこのままでよいはずはありません。
しかし、あのはしゃぎ方、眩しいほどの笑顔を見たら
自分がそんなふうに笑うことが出来なくなっていることに気づかされます。

しあわせとはなんなのか

わたしは考えさせられ続けました。
その体験は、何年経っても忘れることは出来ません。

谷川俊太郎さんの「しあわせ」という詩の一文をふと思い出します。

きのうがももを つねってくれます

貧しい子ども達が土砂降りの雨の中、楽しそうにはしゃぐのを思い出す時、
この詩の一文を思い出します。
彼らに遭遇したことはとてもショックで、同時に素敵な笑顔にやられました。
今まで知らなかった「しあわせ」というものを何か知ることができそうな、
まったく新しい感覚がした瞬間でした。
それはつねられたみたいな感じに、とても似ています。

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