1963年の警鐘。
私が知っているまど・みちおさんは100歳過ぎまでお元気で
テレビに出ていらしたのを拝見した時には、すごく優しそうなおじいちゃん
そういった一面しか知りません。
ぞうさんの詩を書かれた時代も、
その後のツマラナイものが溢れ始めたことを危惧した時代も知りません。
(現代はすでに、ツマラナイもの「だらけ」のようなものですし)
まど・みちおさんの詩には、小さいものに対する優しい眼差しが感じられます。
けれど、こうして世の中の流れに対して警鐘を鳴らされていたんだなぁということを
この楽譜に出会って初めて知りました。
小さきものを守るということは、私たち大人にとっては戦いなのだと
そんなことを学ばせていただきました。
以下、もう出版されていない《ぞうさん》 まど・みちお 子どもの歌102曲集「はじめに」より
この曲集をまとめながら昔のレコード童謡の隆盛期のことを思い出します。その頃レコード会社はツマラヌ童謡かきにツマラヌ童謡をかかせて、次から次へと世の中へ流しました。そして世の中をツマラヌ童謡の愛好者に仕上げてしまうと、こんどは愛好者の世の中の方から次から次へとツマラヌ童謡をほしがるようになり、結局こうした悪循環がその頃の世の中をツマラヌ童謡の洪水にしてしまいました。
ところでツマラヌ童謡は、今でもツマラナクナイ童謡を上回って出回ってはいないでしょうか。ここでいう童謡とは曲でなくて歌詞の方のことですが、ツマラヌ童謡とはその歌詞の精神の高度の燃焼による所産とはいいがたい作、つまり詩ではない童謡のことです。
自分で実作してみて思いあたるのは、歌詞が多少とも詩にちかづいたような作は案外ジャーナリズムの担当者や作曲家が喜んでくれず、逆に常識になり下がった失敗作が往々にして佳作として歓迎され、すばらしい作曲をされてしまうことです。
昨年のNHKのある番組に集まった一般投稿の童謡を若い有能な作曲家数氏と共選したことがありますが、そのとき作曲家側の選ばれた作に、おせじにも詩といえるようなものは一編もなかったと記憶しています。
両者に起こるこうしたくいちがいの原因は複雑で一口にはいえないにしても、童謡かきが読む詩になれた頭で内容を重視しがちなのに対して、音楽関係の人々はまず形式に注目されるもののようです。これはいうまでもなく分けることのできない内容形式を、お互いの好みで勝手に分けて捕えるわけで、ツマラヌ童謡がいまもって栄えている原因の一つはこんなところにもあると考えられます。
かつての悪循環をくり返さないために、童謡かきは童謡の音楽性を勉強すべきだし、音楽関係者は詩の理解に努力すべきだと思います。
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